パノプティコンとしての SDGs

皆様、SDGsという言葉をご存じですか?現在、中学生・高校生の人はむしろ「そんなの知ってるに決まっている!」とおっしゃるでしょうね。現代社会を生きる社会人としては常識なのですが、大人は意外と知らない人も多いようです。時々、製薬会社などから頼まれて社外講師なるものをするのですが、「SDGsを説明出来る人はいますか?」という質問に誰も手を挙げてくれません。その授業で「SDGsの裏設定とか都市伝説」とかをオモシロしくおかしくお話しようというのに、その前提で「誰も知らない」なんて。ヤレヤレ、もう少し勉強しようよ。

というわけで、まずSDGsに関して簡単におさらいです。

SDGsは、Sustainable Development Goals の略です。持続可能でよりよい世界を目指すための国際目標です。2001年に国連で策定された「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals)」がその前身で、2015年に国連サミットで採択されました。目標は、「誰一人取り残さない、持続可能で多様性と包摂性のある社会の実現」です。さらに目標を大きく17個に分け、さらにその下に169個のターゲット、232個の指標に分けています。原理としては、普遍性、包摂性、参画型、統合型、透明性を挙げています。

17個の国際目標として以下が挙げられています。①貧困をなくそう、②飢餓をゼロに、③すべての人に健康と福祉を、④質の高い教育をみんなに、⑤ジェンダー平等を実現しよう、⑥安全な水とトイレを世界中に、⑦エネルギーをみんなにそしてクリーンに、⑧働きがいも経済成長も、⑨産業と技術革新の基盤をつくろう、⑩人や国の不平等をなくそう、⑪住み続けられるまちづくりを、⑫つくる責任つかう責任、⑬気候変動に具体的な対策を、⑭海の豊かさを守ろう、⑮陸の豊かさも守ろう、⑯平和と公正をすべての人に、⑰パートナーシップで目標を達成しよう。17個もずらずらと並べられるとついついサラッと流してしまいがちですが、皆様一度は書き写してみて下さい。こんな風にワープロでもいいと思います。

実は最初からSDGsについて全否定するつもりは更々ありません。

子どもの頃から「いい子」で「理想主義者」として育ってきた自分としては、当然なことばかりだし納得がいくことばかりです。頭のいい、政治的左右でいうと右寄りの保守陣営の方はすぐに「SDGsなんてグローバリスト左翼のプロパガンダだ!」と脊髄反射してしまいます(最終的にはそういう話をしたいのですけどね)が、まあまあ、まずは話を聞いてみて下さい。そんなに間違ったことを言ってるわけじゃあなさそうではないですか?

病院で患者さん相手に日々の診療に明け暮れていると、SDGsの原理などは知っていたとしても、毎日の生活や仕事にあんまり関係ないように「思えて」きます。大人にとっては身近な存在でなさそうに思えるこのSDGsですが、現在「学校」に通っている子どもには大問題です。市民教育(シティズンシップ)の時間などで「自分たちの行動を一つ一つSDGsに関連付けて考えましょう」という授業が開始されています。むしろ、SDGs第一優先みたいな状態になりつつあります。大企業に勤めるサラリーマンの大人にも他人事ではなくなっています。「社畜」の皆様は自社のHPをご覧になったことはありますか?一流企業であればある程、CSR (Corporate Social Responsibility )や SDGs に関するページがあるはずです。SDGs に関しては、貴社のトップがSDGs の17個の宿題のうちどれを選択してどんな回答をしたのかが書かれています。日本はヌルい強制力しかありませんが、そろそろSDGs に沿った活動をしない社員は排除される時代が来ています。皆様は日々の企業戦士としての活動では「自分の仕事が如何にSDGsに貢献しているか」を考えながら仕事をして下さいね。

本題です。

で、ここからはこの文章の本題です。世界の支配者様方(?)は何故SDGsなんてものを作っているのでしょうか?

その前に、ミシェル・フーコーについてです。20世紀に生きたフランス哲学の巨匠です。学生時代(特に高校生から予備校生にかけて構造主義・ポスト構造主義が流行った爺の世代)では構造主義的哲学家の一人として認識している人もいらっしゃるでしょう。マルクス主義がソビエト連邦の崩壊と共に錆びれていき、行き先がなくなったサヨク学生がすがりついた果てが浅田彰や柄谷行人などのポスト構造主義「学者」達が振りまく「意識高い系」の言説だったのです。フーコーも記号論的という意味で構造主義的ではありますが、ドゥルーズ/ガタリのような「言葉遊び」で「賢いふりをする」のとは大違いです。21世紀になってもますます彼が分析した世界は具現化しているように感じます。

その、ミシェル・フーコーの著書に「監獄の誕生」があります。かつて、中世の絶対王政時代までの権力装置としては、「公開処刑」があります。中世の王様が現在の権力よりも残虐だった「だけ」で公開処刑をしたわけではありません。「自分に従わない犯罪者はこのように罰しますよ」という恐怖感を民衆に知らしめるために「公開」していたのです。それでは民主主義的「近代」政府が用いたものは何でしょう?フーコーは、イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムが考案した監獄、パノプティコンを取り上げます。パノはpan=全て、オプティはoptical=見える、の合成語だそうです。看守から全てお見通しの監獄ということです。円筒形の巨大な建物の中心には看守が居る場所があり、その円形の周囲に囚人たちが囚われている独房が配置されています。看守が居る中心から強い光が独房に放たれて看守から囚人がよく見えるけれど、囚人からは光に遮られて看守は見えないようになっています。また、囚人同士は隣りだけれど見えません。「近代国家」が用いた(用いている)権力装置は「恐怖」ではなく、「規律と訓練」です。看守が与える決まりごとを繰り返し行わせることによって「犯罪者」を更生させようということです。「規律と訓練」を具体的に表現すると、「決まった時間にその場所に強制的に出席させて、決められた宿題を繰り返しさせること」です。「規律と訓練」により権力に歯向かう「犯罪者」達を更生させ、組織を安定化させようとした/しているのです。

パノプティコン Wikipediaより

パノプティコンとしての学校

懸命なる皆様はそろそろお気づきかもしれませんが、「規律と訓練」を「施す」装置は監獄だけではありません。我々、近代国家で育ってきた「ホモサピエンス」が幼き頃に放り込まれるところ、そう「学校」はこのパノプティコンそのものですよね。「朝8時30分までの何年何組のこの席に着いておきなさい」「掛け算は前と後ろに意味があるのです」「スカートの丈は膝上何センチより長くしなさい」「漢字を何回練習しなさい」「毎日挨拶しなさい」など「規律と訓練」を小学生(下手をすると幼稚園から)大学生まで叩き込まれるのです。そうして、我々は「いい人」「いい日本人」「いい世界人」に作られる訳です。

公開処刑をする小役人や、看守なら「こんなことやってられねえや」と嫌々かもしれませんが、困ったことに「先生」は大真面目です。「先生」もパノプティコンで「作られた」製品なので、心の底から、正義感一杯で、完璧にその職務を遂行します。「個性が大事」「個性を伸ばす」などというルアーに騙されてはいけません。これは「個性」というマリア像を隠し持っている隠れキリシタンを見つけ出す罠です。一旦個性を曝け出した途端に「怠けないで」「頑張れ」「やれば出来る」「みんなの意見を聞いてみましょう」と言ってヒヨコシュレッダー行きなので注意して下さい。本当に「ヤバい!自分には個性がある!才能があるかもしれない!」と気づいてしまった皆様、少なくともあなたが居る場所は「監獄」です。出来るだけ黙って模範生として刑期を全うして下さい。間違っても看守に「自分は才能があるからここから出してくれ!」なんて言わないで下さいね。「まあ、高校くらいは卒業して下さい」と言われるのが関の山です。

メタファとしては分かるかも知れないけど、ホントか?と疑っているあなた!それでは、「円形教室」なるものが何故存在するか考えてみてください。教室がパノプティコンであることを隠そうともしていません。

パノプティコンとしてのSDGs

話を戻します。SDGsの円形に並んだカラフルな標語を見たときに、ああこれはパノプティコンだなと気づきました。わざわざ円形に並べて、「シナの事典」のように脈絡もない「宿題」が羅列されている様は、隠すつもりもサラサラないのでしょう。世界を所有している神々は、「学校だけでは足りない、『個性を発揮してしまう落ちこぼれ』が出てしまう」と気づいたのでしょう。一生、「規律と訓練」を授けてやらなければとSDGsを作り出しのです。

結論:SDGsは監獄です。

まあ、運動神経がない癖に体育教師がどんなことをしたら喜ぶかを分析して、通知表5段階中の5をつけさせて、優等生を演じることが出来た自分としては、屁でもないのだけれど。クソ真面目な皆様は是非お気をつけ下さい(笑)。