「えんとつ町のプペル」の「危険性」

キングコング西野亮廣さんが監督として制作した映画「えんとつ町のプペル」が大ヒット公開中です。絵本で絵だけを見ていた時は「うるさい」絵本だなあと感じていました。こども用の絵本って、実は「これでお金もらうのか」と思うほど簡易な線で描かれていることが多いことは世のお母さんならご存じでしょう。西野さんの絵はその逆で可能な限り細かく描くことにこだわっており、まさかの点描で描かれています。あまりにも細かく丁寧に描かれているため、逆に、まだ理解力の乏しいこどもにはその絵が「何を言っているのか」がわからないだろうなと感じていました。しかし、動画で動く映像を見る限り、違和感が全くない、立体感があり、光と影がちりばめられ、お祭りや夜の道頓堀のような楽しさが一瞬で伝わってくる、こどもでも理解出来る映像美です。

「えんとつ街プペルのテーマ(表の)」

テーマは簡単に言ってしまえば「頑張ろう」「やれば出来る」「夢をあきらめるな」というものでしょう(こう書くとなんとシンプル)。いえいえ、決してバカにしているつもりはありません。むしろ、そのテーマが恩着せがましくなく、説教臭くなくすんなりと入ってくるように作られているようです。あの宮崎駿監督の「ナウシカ」を高校生の頃に見た記憶で言うと、宮崎ファンでありオタクであった自分から見ても「説教臭い」アニメだと感じたものです。ディズニーアニメなどは捻くれた大人である自分には絶対無理な「説教臭さ」ですね。しかし、プペルにはそんな偉大な作品のような説教臭さを感じません。すんなり頭に入ってきます。ある意味ディズニーを超えています。「説教臭い正論をすんなり大衆に刷り込ませること」に成功しています。こう書くといかにも嫌な大人ですねえ。

それでは、われわれは何故プペル(的なもの)に感動するのでしょうか?「頑張れ」「やれば出来る」「奇跡が近づいている」と言われて何故感動するのでしょうか?

それは、学校で「頑張れ」「やれば出来る」「奇跡が近づいている」と教えられてきた、からです。

「できない自分にしかなれない」スキーマ

認知心理学においてスキーマ(schema)とは、思考と行動における組織化されたパターンと定義されます。先入観に由来する精神構造とも言えます。Youngの中核的感情欲求のなかに「有能な人間になりたい。いろんなことがうまくできるようになりたい」というものがあります。しかし、失敗してしまい阻害されることで「できない自分にしかなれないこと」という傷つきが発生します(Wikipedia スキーマ療法)。

生まれたての子ねこは、「プロ野球選手になりたい」とか「ノーベル賞をとりたい」とか考えたりしません。そりゃまあ、少しはネズミの取り方を母親に教わるかも知れませんが。

われわれが、「いい大学に入って偉くなりたい」「星を見たい」と思うのは「学校で教わるから」です。小学校の頃から(もしかするとお受験幼稚園のころから)「やるっきゃない」「チャンスは誰にでもやってくる」「やれば出来る」などと言う洗脳を、社畜製造装置である「学校」で叩きこまれるのです。頑張らない、努力しない「出来損ない」はベルトコンベアーからシュレッダーに転げ落ちるのです。本当に「やれば出来る」のでしょうか。薄々気づいているとおもいますが、「やっても出来ないことがある」のです。論理的推論能力の遺伝は68%、一般知能(IQ)の遺伝率は77%。知能のちがいの7~8割は遺伝で説明できるのです。『言ってはいけないー残酷すぎる真実―』橘玲著。自分はバレリーナにもなれないしプロ野球選手にもなれないのです。では、小学校の頃から「夢を諦めるな!」と鞭打たれてきたまじめな子羊たちはどうなるでしょうか?だいたい、夢を実現出来る人ってどれくらいいるのでしょうか?自分の場合、何故か幼稚園の頃から医者になりたい、医者になってノーベル賞をとりたい!っと思いこんでいました。今思えば親の洗脳かも知れませんが。で、なんとかギリギリ医学部に入学出来て、卒業後二十数年を経てようやく人様のお役に立てているかなあと思えるようになってきたところです。ノーベル賞なんて「なにそれ美味しいの?」です。こどもの頃の「夢」を振り返って現時点の自分に点数をつけるとすると、まあ8点くらいですね(100点満点で)。

「やれば出来る」ほど我々を圧迫する言葉はない

自分は、整形外科医であり、リウマチ医であり、痛みをみる医師でもあります。そんな自分のところへやってくる患者さんの中に、慢性疼痛で長年苦しめられている人が数多くいらっしゃいます。実は今年「痛み」の国際疼痛学会(IASP)の定義が少し変わりました。日本疼痛学会による正式な日本語訳は、「実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する、あるいはそれに似た、感覚かつ情動の不快な体験」となります。何だかわかりにくいですが、つまり、「痛みは感情」なのです。われわれは、「病気があるから」「けがをしているから」痛いと考えがちですが、例えば雷が石に落ちても、石は痛みを感じる訳ではありません。しかし、ヒトは侵害受容器から上がってきた電気信号を解読して、脳で痛みという感情を創出するのです。しかも、今年の定義変更の付記ではさらに「痛みと侵害受容は異なる現象です。感覚ニューロンの活動だけから痛みの存在を推測することはできません。」と強調されているのです。そして「痛みは常に個人的な経験であり、生物学的、心理的、社会的要因によって様々な程度で影響を受ける」のです。何から影響を受けますか?それはこどものころからずっと、ベルトコンベアーの上で大人たちから聞かされてきた「頑張れ」「やれば出来る」「チャンスはみんなに平等だ」「人生に失敗はない」などという言葉からです。慢性疼痛で苦しんでいる人はまじめな方が多いです。「正しい人間であるべき」「健康であるべき」「理想の自分になるべき」と本気で信じています。それが、録音されたラジオ(あるいは先生?)から聞かされたスキーマであることを知らないのです。心の深くに印刷された言葉は消えないのです。

 

プペルの作者監督はイケメン天才お笑い芸人西野亮廣さんです。主人公のルビッチの声は天才子役にして秀才、慶応義塾女子高校の生徒で将来に夢は「病理医になること」である芦田愛菜さんです。そして観客のこども達は映画館で愛菜さんから「星を見たのかよ!」とおこられてしまうのです。

西野監督の野望

おそらく、西野監督の夢は世界です。ディズニーを超えることでしょうか。なので、処女作から「全世界中で誰もが納得する(ひれ伏さないといけなくなる)テーマ」を選んでいる訳です。新海誠監督が処女作「ほしのこえ」で「恋する男女の時間の進行度の違い」などというマニアックなテーマを選ぶ、最終的にバッドエンドにもってくるような、回りくどいことはしなかったのでしょう。初作から勝ちに来ているのです。

「星なんて見えなくていい」

点描からなる緻密な絵とスタジオ4℃の完璧な映像で、大ヒット間違いないでしょう。世界的にも評価されるでしょうし、何か賞を獲るのではないでしょうか。ただし、注意しながら見て下さい。この映画は「猛毒」です。最近ようやく「がんばらなくていい」「いい人をやめよう」というコーピングの言葉が受け入れられるようになってきた時に、「奇跡は近づいている」とわれわれを打ちのめすのです。特に「頑張っている」人は要注意です。

 

あくまでもエンターテインメントとしてお楽しみ下さい。